インタビュー Interview

和服、その奥深き世界

染織・きもの研究の第一人者として知られている共立女子大学教授の長崎巌氏にお話を伺った(2)では、私たちにもなじみ深い江戸時代にフォーカス。 中には女性は思わず苦笑いしてしまうような身近な話題も。厳しい制度の中でも大らかに暮らしていた日本人の姿が、和服文化を通して生き生きと浮かび上がってきます。

第2回(2)

共立女子大学 家政学部 被服学科教授

長崎 巌 氏

江戸時代も女性は強かった!?
「見て見ぬ振り」で、江戸の小袖文化が花開く。
きもの文化が発展したのは、やはり江戸時代でしょうか。

インタビュー画像 江戸時代に小袖が華やかな展開を見せたのは、戦が終わって長らく平和な世の中が続き、生活を謳歌できるようになったからですよね。邪魔な袂が付いた小袖を着られるということは暮らしに余裕がある証拠ですから。桃山時代には庶民の生活もベースアップしていて、日中労働している時は筒袖、家でくつろぐ時に袂付きとなっていたんです。また、桃山時代になると庶民から町人という身分も出てきます。物を売ってマージンを稼ぐという新しいビジネススタイルを手に入れた町人は庶民から脱却し、支配者にはなれなかったけど成り上がった印である袂付きの小袖を着た。でも大袖は着ないから、きものの着流し状態が町人の格好になっていくのです。ちなみに衣服が華やかなのは女性に限ったことで、男性はそうではなかったんですよ。

たしかに男の人のきものは色柄など質素で落ち着いたイメージがあります。

江戸時代は身分社会ですから当然衣服で身分を区別する必要があり、昔ながらのルールどおり身分に応じたものを強制された。さらに戦がなくなった江戸時代の武士には武士道という哲学が広まったので、支配者だからといって贅沢で表現するのは武士の価値観に反すると考えたわけです。一方、衣服で洗脳するためには大袖を着る必要があるけれど、日常業務もこなさなくてはいけない。だから直垂の袖を取ってシンプルにした裃(かみしも)を着てフォーマルウエアとしたのです。

では、女性の小袖に華やかなものが多いのはなぜ?

我々の先入観では、江戸時代は男尊女卑だと思いがちでしょう?ところが全然違っていたんです。もちろんお家安泰のためにはお妾さんをつくったりしますけど、これは男にしか相続権がない長子相続、それも殿様が決めるものですから、男子が誕生するまで産ませる必要があった。でも表向きの道徳で言えば完全に一夫一婦制。江戸時代のほうが現代よりも多少男の人を立てるということはあったかもしれませんが(笑)、今とそう変わりはなかったのです。つまり女の人の機嫌を損ねたり、女性に余計なことを言うとロクなことがないということなんですね。

なんだか耳が痛いですけど(笑)、それと小袖がどう関係するのですか。

女の人の本能は、失礼ながらやはり着ることが大きいと思うんです。これはどの身分もみんな同じでしょう。そこで「女の人がこうしたい」ということにはとやかく言わないようにしようという暗黙の社会的了解ができたわけです。ただし身分制度があるので「見えないようにやってね」と。「見て見ぬ振りをする」という言葉があるけれど、男社会を安泰に維持していくためには女の人がヒステリーを起こさないようにするのが一番と考えたのでしょう。「奥のことは表からは見えないのだから適当にやってね」という建前です。よく物事の表裏と言いますが、当時の概念だと表と奥となるわけです。奥様という言葉もそこからきていますよね。

でも、江戸時代は贅沢が禁止されたりしたと思うのですが。

もちろんいくら以内で作るという禁制はありますけど、明らかに上限内ではやっていませんよね。たとえば江姫の娘で天皇家に嫁いだ東福門院という方は最高額で600匁(もんめ)※、将軍の奥様でも500匁以下でないとダメでした。ところが700匁かかっても呉服屋のほうで600匁と書いたり、300匁で仕立てたものを400匁で請求したりして帳尻合わせしていたんです。ここも見て見ぬ振りをしていたわけで、融通無碍(ゆうづうむげ)にやっていたんでしょう。天保の改革で水野忠邦が奢侈(しゃし)禁止令を出した時、大奥で使っていた金額は、現在に換算すると年間で3億円ほど。それを半分くらいに減らすようにと命じたら、すぐに失脚してしまいましたよね。普段は他の女性の悪口を言っている大奥の女性たちも、このときばかりは一斉に「水野が悪い」と責め立てて、それを将軍は毎晩聞かされたから失脚したのではないでしょうか。もちろんそんな文献はありませんが(笑)、それくらい女性を怒らせると面倒なことになるということでしょう。

江戸の女性はパワフルだったということですね!ほかにはどんな決まり事がありましたか。

たとえば町人が一世一代の結婚式などで裃を着ると武士と一緒になってしまう。だから羽織を着たら?ということになったのです。羽織というのは武家の世界ではコートと一緒。風よけのために着ていたものだからカジュアルだったし、裃のように大事なものではないので武士の身分が侵されたことにもならず、町人は羽織を着ることが許されたんです。時代劇などを見ると殿様が家の中で羽織を着ているわけですけど、本来コートを室内で着るというのはそもそもおかしいんですね。これは町人が羽織をフォーマルに着るようになったのがフィードバックされて、武士も裃のかわりに羽織をセミフォーマル、ビジネス着として着るようになったということなんです。平和な時代にビジネスはどんどん動くので、庄屋など富裕層になった庶民が苗字帯刀(みょうじたいとう)を許されて武士に準ずる身分になったりもします。一方で公家の人たちは面倒をみてくれる人がいないから大袖を着ていられなくなってしまう。だから儀式のときだけ大袖で、日常着は小袖になっていくんです。
※匁とは…現在の価値に換算すると、江戸の初期あたりは銀1匁がおよそ2,000円前後と考えられる。

  • 長崎 巌 先生インタビューを読む
  • 1
  • 2
  • 3

長崎 巌 先生 プロフィール

東京芸術大学で芸術学、工芸史を専攻し、東京国立博物館染織室長を経て、共立女子大学家政学部教授に就任。「Kimono Beauty-シックでモダンな装いの美 江戸から昭和-」(2013年)「Katagami―型紙とジャポニスム展」(2006年)などの企画展覧会を担当し、『日本の美術 小袖からきものへ』(至文堂)、『きものと裂のことば案内』(小学館)など著書も多数。

  • 1976年 東京藝術大学美術学部 芸術学専攻修了
  • 1979年 東京藝術大学大学院美術研究科(修士課程)工芸史専攻修了
  • 1982年 東京藝術大学大学院美術研究科(博士課程)芸術学専攻単位取得
  • 1982年 東京国立博物館学芸部法隆寺宝物室勤務
  • 1990年 東京国立博物館学芸部学芸部工芸課染織 室長
  • 2002年 共立女子大学 家政学部 被服学科教授
  • 2005年 きもの文化賞受賞

きものを無形文化遺産(世界遺産)にするための署名にご協力お願いします。

ご賛同署名はこちらから

Copyright:特定非営利活動法人NPO きものを世界遺産にするための全国会議 All Rights Reserved.