NPO法人和装を世界遺産にするための全国会議

和服、その奥深き世界

・日本の装い文化や歴史、伝統技術などに造詣の深い有識者として、第2回目にお招きしたのは長崎巌氏。数多くの著書出版や雑誌連載を抱えるほか、講演などでも常に大人気の有名講師のお話は、日本和装卒業生で、社員でもある「きもの大好き!」なインタビュアー・大森由貴子の心を鷲掴み。あなただって間違いなしです!

第2回目(1)

共立女子大学 家政学部 被服学科教授

長崎 巌 氏

小袖に袂(たもと)が付いたのは、わざと動きにくくするため。昔は身分の違いを衣服で表現していたからです。

ーーー そもそも、きものの始まりはいつになるのでしょう。

現在のきものとまったく同じ形と言うと室町時代が出発点となりますが、それ以前の筒袖型の袖が付いていた頃であれば平安時代ですね。身頃があって袖があって衽(おくみ)が付いて衿があるという構造ができあがっていくプロセスまで含めると弥生時代まで遡ります。ただし、一般にきものの出発点はどこにするかという話になった時に、なかなか弥生時代まではいかないんです。弥生時代の貫頭衣(かんとうい)というのが、いわゆる左右の身頃を2枚縫い合わせた形なんですが、ポンチョみたいに首の形を丸くくり抜いたものだと解釈していることが多いんですよ。そうではなく、きものの身頃2枚を合わせて首の部分だけ縫わない状態のものがおそらく弥生時代の貫頭衣だったと思われるんですね。

ーーー もう少し詳しく教えていただけますか。

衣服というのは生地の幅ですべて決まるのですが、日本では人の手で生地を織る時には必ず右から左へ緯糸を手渡ししているため、肩幅程度しか織れないんです。これがだいたい40cm前後、現代の反物もそれくらいですが、そのままで縫い合わせると身幅が足りず、脇が開いていれば身体保護という機能も果たしません。そこで身長×2の長さに切った反物を2つ用意して両肩にかけると、幅が80cmくらいになってちょうど身体が隠れますよね。この2枚の布を首と両手を通す穴を残して縫ったのが貫頭衣だったと考えるわけです。さらに反物を半分に折れば腕が通る幅くらいになり、これを身頃に付けると腕も保護される状態になりますが、袖が付くと上に引っぱっても脱げませんよね。そこで一旦縫った前を開けるんです。そのままだと風が入ってきてしまうので、オーバーフラップとなる衽をつけ、首がこすれて痛いので衿をつける。そうするときものになるでしょう。そういう理屈を考えると、貫頭衣から我々が考えているきものに向かっていく方向性は合理的ではあるんですよ。

長崎巌氏

ーーー では、平安時代と考える理由は?

よく、きものの原型と言われる小袖という言葉が生まれたのは平安時代の前半から中期くらいですが、それは「大」が付いている大袖という言葉があったからです。大袖とは、いわゆる十二単や束帯の袖のこと。ただし、その時に小袖と呼ばれたのは、我々が知っている袂の付いたものではなく筒袖のものです。筒袖の衣服と大きな袖の付いた衣服、つまりこの大小というのは袖口のことを指しているんです。この時代になると格差社会になっていて、平安貴族は大袖を着て、貴族のために奉仕する人は動きやすい筒袖を着る。身分の違いを衣服で表現していたわけです。

ーーー たしかに絵巻物などで見る平安貴族は大きな袖の服を着ていますね。

大袖がなぜ出現したかというと、支配者であることを常に見せつけるためなんですね。人が人を支配する社会システムが完成してくると、腕力や刃物以外で有効なのが洗脳、洗脳に何を使うかと考えた時に、常に目にするものが衣服だったわけです。一目で違いがわかるようなものを身分に応じて使い分けていれば脳に摺り込まれてしまうわけですよ。これは世界中一緒で、暴力以外で心理的に支配する身分制度の社会の中では、近代にいたるまではそういう発想がユニバーサルな現実でした。支配者が大袖を着るアイデアはもともと中国にあって、日本は奈良時代にそのアイデアを取り入れたのです。

ーーー 小袖が筒袖だったというのも意外です。

武士はもともと筒袖だったのですが、平清盛や源頼朝の肖像画は束帯を着ているでしょう。成り上がった時、支配者は支配者の格好をしなきゃいけないと思っているからです。けれども公家が自分たちより力がないことは次第に歴然としてくるわけじゃないですか。公家の格好をすることが力の表現にはならないんですね。そこで武士は別の方法で支配者ということを表現する。それが筒袖の小袖に袂を付けるということでした。袂が付くと邪魔になって動きにくくなる。つまり労働をしない支配者に成り上がったということの表現だったのです。その上に着る直垂(ひたたれ)も、平安貴族は重ね着していますけど、武士は印だから一枚しか着ないわけです。

ーーー 小袖からきものという言葉に変化したのはなぜ?

室町時代以前からきものという言葉は使われていましたが、単に衣服という意味でした。桃山・江戸時代になると、小袖をきものという別称で呼んでいたとポルトガルの宣教師が書き記したものも残っています。ただ、江戸時代までは公家や武家が大袖を着ているので、小袖も死語にはならず使われ続けた。ところが明治になると公家や武家は政治家になって、欧風化政策で洋装化します。江戸時代に大袖を着ていた人たちが洋服を着るようになると大袖がなくなり、大袖がなければ対峙する小袖という言葉は要らないので、小袖はやめてきものにしましょうという話になったわけです。きものについて知る時には、このように弥生時代から明治まで一つの論理で動いていることを理解するとわかりやすいと思います。

長崎 巌 先生 プロフィール

東京芸術大学で芸術学、工芸史を専攻し、東京国立博物館染織室長を経て、共立女子大学家政学部教授に就任。「Kimono Beauty-シックでモダンな装いの美 江戸から昭和-」(2013年)「Katagami―型紙とジャポニスム展」(2006年)などの企画展覧会を担当し、『日本の美術 小袖からきものへ』(至文堂)、『きものと裂のことば案内』(小学館)など著書も多数。

1976年
東京藝術大学美術学部 芸術学専攻修了
1979年
東京藝術大学大学院美術研究科(修士課程)工芸史専攻修了
1982年
東京藝術大学大学院美術研究科(博士課程)芸術学専攻単位取得
1982年
東京国立博物館学芸部法隆寺宝物室勤務
1990年
東京国立博物館学芸部学芸部工芸課染織 室長
2002年
共立女子大学 家政学部 被服学科教授
2005年
きもの文化賞受賞
長崎巌氏

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